twitter やっております。が

前回のエントリーでボソっと宣言した、「猿でもわかるソーシャルメディア」という放送をする場合、まず何から始めればいいのか。
そんなことを考えておりました。

何から説明を始めれば分かりやすいのか。そんなことを。

放送は(たぶん)Ustreamでやるから、Ustreamの説明から始めればいいとも思っていたのですが、やっぱり初級編にUstreamは敷居が高いかな?っと思って、より皆が気軽に始められる・始めつつあるtwitterの話をしようかなぁと考え直しました。まだ決定ではないですが。

でもでも、改めてツイッターの特徴・特性を説明せよ!ってなると、意外と厄介だったりする。
・「140文字」で書けるミニブログ
・アイコンは自分の顔で!
だなんて売り文句は使い古されていて格好悪いし。(でも多少はそういう説明も入れないとなぁ)

もちろん、どういう繋がりで何人くらいフォローするかで使い方も様々、そのためにアイコンを複数使い分けるのも普通なわけ。


「王様の耳はロバの耳」〜Twitterをしばらくやってみて〜
http://blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime/e/77cdcb3ba2c4c6cbb08a5f63d61dfc65

ここでもちょっと言及なされてるけど、まだまだ「一般的」と言えるほどツイッターが普及するのはこれからだと思う。そうなると色々変わって見えてくる「事情」も出てくるでしょうね。

ツイッターを使う人のタイプをざーーっくり2通りに分けるとすると、こんな感じ。

A.友達たくさん作る系
(特徴)フォロー、フォロワー共に同じくらいの数。中堅レベルで2000人くらいのフォロワー。「渋谷なう」「寝ます」的ツイートが多い。フォロー返しとかをしたがる。ツイートが@ばっかり。
B.ビジネス系
(特徴)フォロワー>フォローの形(に憧れる)。中にはフォロワー1万人もいるのに、頑なにフォロー数は100未満を保つ人もいて、極端。他から仕入れた情報記事をRTすることが多い。ただ自分も情報発信者になりたいから時々そういう意見主張ツイートをする。

世の中の比率的にみて、どうしてもAタイプが多くなるでしょう。別に悪い意味ではないですよ。

そうすると、逆にこれまでより「ツイッターのビジネス活用」なんかも盛んになるでしょうね。
Bタイプの人にとってこれまで「ツイッターって強力&最速な口コミツール」なんて言われても、どうしても業界系のウェブメディアのニュースなんかの情報収集ツール的な使い方しかしてなかった人いると思うし、せいぜい「こんな意見もあるんだぁ」っていう「業界系のブログ」を口コミするくらいのもんでしょ。所謂「口コミ」とか「噂」とか「井戸端会議」的な雰囲気って、実は僕も味わったことないのかも。僕はBタイプ。ちなみに血液型もB。

最近だと「沢尻エリカ離婚!?」→「まじで!?RT」
・・・くらいかなぁ。

ただ、実際問題、フォローしている人が何人でも、華麗に「リスト」っていう機能とクライアントを使いこなせば全然関係ないんだけどね。このあたり最近かなり実感してる。

でもそういう「機能」が「機能」止まりだとちょっとイケない。つまり、初心者でもすぐに扱いこなせるくらいでないと。
hootsuite なり tweetceck なり、別にクライアント使わないとツイッター本サイトそのものはかなり不便。これ、ツイッターの浸透を遅らせている(いた)原因。

リスト機能だってそう。完璧に使いこなせば、フォロワー何万でもイケるはず。でもちょっとでも面倒くさいと人はそれをやらない。
僕のTLだって最近、 homefeed(フォローしてる人全員合わせた僕のTL)はかなり混沌としている。

本当は一回バシっとリスト作れば、そのリストだけ見れば済むようになる。残りの人は「形だけのフォロー」。
しかもそのリストって公開させることも出来て、例えば著名人が作成した「広告業界リスト」なんてあれば、かなり便利。
これまでそういう、「○○クラスタの人をまとめてフォロー」ってあんま出来なかった。

普段の自分のクラスタと違う個人的な話題を多くするとリムられるなんて思いもあったりするかも。



・・・・とかなんとか言いながら皆始めれば勝手に自分好みに使うわけなんですけどね。

今回は実に頭の悪い記事でした。失礼しました。



・・・・そういう意味で「ツイッター」みたいな一本線ではソーシャル性が限界にくるだろう。
とっくに来てるのかもしれないけどw
個人的には Google buzz か myspace に頑張って欲しい。
アメーバとかモバゲーみたいな「アバター」的な文化って、ハンゲームの時代でもう卒業したし・・・
なんで日本ってああいう文化あるんだろうなぁ。。。

Ustream始めます。かも

突然ですが、東大のサークル関係で、人生初Ustするかもしれませんのでお知らせします。
番組名は「猿でも分かるソーシャルメディア(仮題)」でっす。

内容的には、まあいつものブログの調子で広告とかSNSについて話そうかなと。
ただ、番組という形式なので、ラジオ的なトークセッションにするか、セミナーのダダ漏れ的な感じにするか。
そこらへんはまだ決めていません。
単純な放送テストとか、あと細かい内容を決める企画会議なんかもダダ漏れしようかと思っています。

@over_try_again をフォローして頂いている希有な方、告知ツイートとか見かけたら覗いてみて下さい。
普段僕のブログを読んで頂いている希有な方、もちろんブログにも随時告知しようと思いますし、覗いてみて下さい。

番組放送用簡易番組ホームページ作成ツールみたいなのも欲しいし、レジュメみたいなのも誰でも見れるようにしたいなぁ。

こんな話して欲しいとか、もしありましたらコメントに書き書きお願いします。

フェイスブックで広がる世界

最近、あまりに話題を目にすることの多いソーシャルメディア、それがfacebook
ユーザー登録数4億人。月間サイト訪問者数5億人。年間予想収益額10億ドル。
もはやページビュー数でfacebookに勝負できるのはgoogleだけになってきた。

位置情報系サービスで4squreが先日ユーザー数100万人を突破したということがニュースにもなったが、これと比べたら鼻くそみたいな数字だ。道ばたの石ころ並みの存在でしかない。
今日本でブームになったツイッターでさえ、ユーザーは1億を超えたばかりだというのだ。

数字だけで見ても、facebookがもつポテンシャルの強大さが分かる。それと同時に、彼らの一挙手一投足が明日のIT業界や広告業界、さらには人間社会にどれだけの影響を与えるのか、考えると少し恐ろしくもなる。

しかしfacebookの能力について、保持するユーザーの数などは判断材料になどならない。
もちろんサイトのユーザビリティやデザインやネームバリューなんかは、会社の評価額を決定するのには一役買うだろう。
どれだけ優れたサービスも、一定数の利用者を超えなければ力を発揮できない。特にソーシャルメディアに関しては。
ユーザー数とfacebookの可能性。そのふたつは切っても切れない関係でありながら、はっきりとした優劣関係にある。
facebookが生まれたから、人間はWEB社会に生きることができるようになった。

facebookの破竹の勢いと、数年前までウェブ上の話題をさらっていたgoogleを比較検討する記事が、最近多い。

米メディアが指摘するFacebook時代=ソーシャル広告でGoogle直撃【今週のピックアップ】 
http://techwave.jp/archives/51439741.html


おそらくその背景としてあるのが、次の記事で書かれているfacebookの発表だろう。

Facebook、情報共有プラットフォーム「Open Graph」を発表--開発者向け会議「F8」 http://ow.ly/1CWbT

この発表が意味することは、どういうことか。
この、オープングラフ なる機能で、facebookはどのような能力を発揮し、それが如何に他社(googleなど)にとって脅威なのか。

facebookがこの機能によって実現しようとしていることはwebをひとくくりにパーソナル化、個別適応させることだ。
あそこでの書き込み、あれのレビュー、あれを買った、全てのWEBでの動向の足跡を、facebookを介してもらうことで集積していくのだ。

ある意味で、これはgoogleと似ている。「検索」という2文字をコントロールして、WEBに点在するページというノートを全て統括していった昔のgoogleだ。
彼らの収益システムは抜群だった。検索という能動的行動の裏にある、人々の個別の情報ニーズを逆利用して、それにバナー広告を貼付けることで企業から広告料を受け取った。買いたくない人に買いたいと思ってもらうための広告。そんな昔の時代からはとても想像することのできない革新的な技術だった。
知りたい情報を手にできる。そんな状態に人々も満足して、googleに感謝した。

ところがこのわずか数年の間で、それも変わってしまった。
人はパーソナルな環境に慣れ、WEB上で自我をもつようになった。
これまで現実世界での問題発生を解決するための延長線上にあったWEBが、WEB内だけで完結したくなった。
「知りたい」という知的な欲求が、「教えてほしい」と「教えたい」という社会的欲求に変化もした。
加えてソーシャルメディアの浸透が一度認知されれば、無数の出会いと会話が成立し、それは時に現実世界の自分の生活にも波及していった。人と人がつながり、会話をかわせば、友情や愛情も生まれ、現実世界での商売にもうまくいったりした。
それははっきりと、個人が抱えていたWEB上での自我と現実世界での自分の世界とを結びつける様子であり、その喜びを覚えた人は、もうソーシャルメディアの虜だ。

正直、googleが勝つとか、facebookが勝つとかを決算報告書やアクセス解析で比較検討することは、現実世界に両足が残ったままの議論であって、ソーシャルメディアの役割とは別問題だ。
それよりも各社、各サービスがWEB社会でどのような役割をもった職業であり、その影響力に応じてどれほどの社会的責任を追う運命にあるのかを、しっかりと各自が判断していくことのほうがよっぽど意味がある。

そういう意味で、僕はfacebookを戸籍に例えてみる。
WEB上での自分のプロフィール。自分の存在証明がソーシャルメディアだと思う。
その中で交わされる会話、向けられる視線も、大きなパーティー会場にいる自分の存在証明のようなものだ。

open graph は確実にWEB上での「行動」を促進するだろう。
戸籍はWEB世界において、「人」そのものに近い意味をもつ。

WEBの世界には「家」がない。物理的、肉体的な障害のない環境では、人は休む必要がないからだ。
外敵から身を守ることも、ブロックという形でだれかが勝手にやってくれる。
本当の意味での愛情の確認は、それは現実でやればいい。

________

facebookgoogleにとって脅威になる理由は、人が知的欲求を「検索」を介さずに満たせるようになったからだ。
このブログ記事ひとつとっても、SNS上でその情報を知り得た人がリンクから直接ここにランディングすれば、そこにgoogle の役目はない。
googleは情報を本のように扱ってきたが、今はその本の1ページ1ページに出会う方法がいくらでもある。
書籍とはそもそも人間の知識を保管して、遠く離れた人、未来の人に贈るための存在で、縦横無尽に人とも出会える環境になれば価値が低下するのも必然的と言える。
だけど人間の知的欲求はなくならないから、如何にWEB社会と現実が融合しても、検索の役目はなくならない。
________

なんのことはない、たった数行の話だ。
しかも、google adsense は別の話だし、google buzz なんかももっと別の話だ。

繰り返すけど業界内での勢力図的な話は別問題。
ただ、現実問題として今からfacebook並の存在が誕生することは難しい。
世界的に見て、facebookがナンバーワンであると同時にオンリーワンになってしまう可能性は高い。
しかもソーシャルな話題となれば、「囲いこみ」やら「独占禁止法」「既得権益」なんてワードとはどうもイメージが離れてしまうのは、それは少しは気にしないといけないかもしれない。

加えてfacebookが日本での浸透に苦戦していることと、mixiやらグリーやらが到底facebookの役割を担えないことに疑いの余地はなっしんぐです。


、、、、そんな感じです。ほんと、大したことない内容です。
どうも僕はまだまだ社会学とかまで勉強する必要があるようです。



今日は久々に朝から学校に行きました。
普段ブログは家で寝そべりながら書いているので情報教育棟のパソコンの前に座ってブログを書いているとなんだかアカデミックな気分になるもんですね。

メディアの予算配分

少し前のアゴラの記事について。読んでて思ったことでも。

これからの広告会社には、ファンドマネージャーのような姿勢が求められていく - 田端信太郎 http://ow.ly/1zPei%EF%BC%89

この記事の最中に、グラフが参照されていますね。線がいっぱい書かれた。



あれを見て、なるほどなーと同時に違和感を感じまして、どうにも。

で、どうしたらいいかと思って、左に90°回してみたんです。そうするとしっくりきた。
これからのメディア配分の概念は、こういうことなんじゃないかな。

もちろん、既に存在している企業にとっては最下部の「検索」などは新設しなければいけない範囲なのでしょうけど、
これからの新興企業にとって、もはや自社HPの充実や、SEO対策は必須事項でしょう。

もうひとつ大事なのは、この5層くらいのピラミッドが、本物の積み木みたいに段階的に積み上げられるようなものでないということ。
初期段階で規模の小さい会社には、小さなピラミッドが必要だ、ということ。

つまり、ネットで自分の住所をもって足場を固める力と、会社全体を上方向に伸ばしていく力とのバランス。

既存のTVCMなどの広告と比較して、WEBを何か詳細な情報の補完だとみてしまったりする場合があるのかもしれないけど、
まぁ「予算配分比率」うんぬんって話じゃないって話です。

最近長い記事が多かったですけど、今日はこのへんで。

現在中途半端な下書きが溜まりつつあります。
そしてそれらの多数は下書きのまま埋もれていく運命です。

次回予告:「 米メディアが指摘するFacebook時代=ソーシャル広告でGoogle直撃【今週のピックアップ】」について
参考URL: http://ow.ly/1CNjl

メディアというもの。

@noritakahiroさんに勧められた、小林弘人さんの「新世紀メディア論」を読んで、思うところでも。

参考URL:

1.「コンテンツはコピーできるが、コミュニティはコピーできない」:http://ow.ly/1A9ZZ

2.「マスメディアはコンテンツ置き場になってしまうだろう」:http://techwave.jp/archives/51375731.html

2.のtechwaveの記事で書かれているように、最近「メディア」とか「コンテンツ」とか、あと新世紀メディア論の中で言われている「出版」だとか、そういう言葉の定義が多様に変化している。
これはひとえにネットのインフラ時代の前と後とで、不可能だからと編み出した方法論と、可能だから編み出される方法論との違いなだけで、本質は大きく変化していないと思います。

なので、一応「新世紀メディア論」で語られている内容には賛同するところが多く、また間違いも少ないと先に断っておきます。

ただやっぱり気になるのは「コンテンツ」といういい表しなわけで。
 小林さんら出版側の人にとってこれはどうしても「記事」のことを指すことが多くなってしまうのですが、多分そこが誤解の原因で、その他多くの業種にとって「コンテンツ」とは「単独で対価を支払ってもらう商品そのもの」であったりして、つまり転じて「その商品が支持者個人個人に提供してくれる額面以上の価値」であると僕は思っています。「ブランド」とも捉えられたりします。

僕は以前のエントリーで「コンテンツという言葉を、ソーシャルネットの中で人が目立つための背丈のようなもの」だなんて意味のわかりづらい例えをしていましたが。。その辺りにも原因がありそうですねぇ。

出版社にとっての記事という名のコンテンツ。
そして企業にとっての商品という名のコンテンツ。
どちらも同じ「サービス」であるという点は変わらないはずなのに、どうしてこういう齟齬が生まれてしまうのか。
それはメディアを持つか持たないか。どちらが先立つものなのか。という違いなのではないでしょうか。
何で商売するか、というビジネスモデルの違いなのではないでしょうか。

出版社(新世紀メディア論で語られているような、新定義の出版社も含む)は先に自分たちでメディアをもつ。
そうでない企業らはメディアをもたない。常によそから広告費と引き換えに与えられるものだった。

先立つものとしてメディアをもつ、とはどういうことかというと、そのメディアを「稼働」させている必要があるわけです。
メディアというのは川のようなもので、絶えず水が流れている状態です。
一方コンテンツはまさしくその川を流れる「水」。
水は、川がなくても、存在するだけで必ずどこかに流れていきます。重力に従って。ただし、逆にいうと着々と世界の「下端」、つまり人々の忘却の彼方へと消えていってしまうのです。

水を扱うのか川を扱うのかという点で、この「出版社」と「それ以外」のそもそものビジネスプランは大きな違いなわけで、ネットで可能になった技術のどれを駆使しても今後埋められることはないんではないでしょうか。

言葉の変化こそすれ、いずれは「放送」「通信」といった、今で言う「テレビ・ラジオ」の分野まで、新世紀メディア論的にいう「出版」に組み込まれていく部分が多くなるでしょう。

ただ、小林さんが出版的立場から「編集者」というものの存在を重要視していた傍ら、僕は「バイヤー」という者の存在が大事だと思っていました。このふたつは意味するところは似ているのですが、あえて違いを挙げれば、それは取り扱うコンテンツに対する態度だと思います。前者のことを少し悪く言うと、コンテンツは二の次、メディアの稼働サイクルが重要。一方「バイヤー」は、より厳しい目で将来的にも伸びるクオリティの高いものを「選別」することに最大限注力します(あくまでも言葉に対する印象です、現職の人は気になさらずに)。

つまりはどちらも「ファッション」ということになります。
数日前にみかけたこんな記事があります。

ツイッター「ホコテン」論 :http://www.satonao.com/archives/2010/04/post_2882.html

ここで言われている「マスメディアはデパート」というのも、なるほど同じことを示唆しているのだと思います。
・・・偶然ですよ。パクったわけじゃありません。

結局のところ、出版だってテレビだってビジネスモデルは同じなんですよ。

そこで、テレビは動画っていう3次元、そして「多くの人を巻き込むことで発生する面白さ」みたいなことについて少なくとも一日の長があるんだから、そこらへん見誤ってくれんなよ、って話。
小林さんも「新世紀メディア論」でおっしゃっているように、動画っていうリッチメディアの制作はテキストよりもコストもハードルも高いものです。これは「テレビ」が誇っていい自分たちの長所のひとつで、まさか「テレビを見なくなって同時に動画も見なくなった」なんて人はいないでしょう?

ただ、でっかい問題はひとつで、それはストックできない問題。ある意味で「テレビ」っていう箱デバイスの機能の問題でもあって、それはテレビ局っていう企業体の問題ではないはず。・・・はず。

多少乱暴にだけど、ホリエモンがこのことについて言及している。

→コピーガードとかHDD録画とかどーだっていいんだよな。:http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10442446246.html

ここさえ解決すれば、あとはテレビっていうのは実質もう雑誌とかブログとか、ミドルメディアの集合体にもなれれば、ファッションの総本山みたいな存在になれるんじゃないかな。
ここさえ解決すれば、「多チャンネル化」することと実質同じ効果があるはず。
4chとか6chってくくりを無くさないで、ブロードバンド上で個人個人が自分の好みのラインナップにもできる。
CMもスポンサーテロップもそのまま流してしまえばいい。
スキッピングされるから〜だなんて非難は、まるで挙げ足とりで、ウェブメディアはともするとそんな点ばかりを言及するけど、ウェブメディアだってユーザーの大多数に無視されている「雑多な広告貼り付け収入」に頼っているんじゃないか。同じじゃんか。(だからホリエモンの1時間何円で〜という話はテレビを何か映画くらいしか見ないものとでも思ってるみたいで、間違っている)

もっといえば、
いつかテレビ台のひとつひとつにあなた個人の好みを記憶する機能があって、それに合わせて配信するCMも変化するようになれば、恐ろしいと思わない?
まだまだ数年の歴史しかないウェブ上のコピーライティングに、これまで長い年月培われたCMプランナーの傑作が全部襲いかかってくるよ?・・・って話。
丁度こんなニュースもでてきたしね

facebookのオープン・グラフ:http://techwave.jp/archives/51437998.html

こういうソーシャル化がナノメディア・ミドルメディアの専売特許である時代が早く終わるといいと思う。
これに尽きる。

なんかあんま大したこと書けなかったけどさ、実はみんながそうで、実はみんな同じこと言ってるだけってことあると思う。

今回はテレビの話に傾いたけど、これを広告とか代理店の話にもっていけたらいいと思う。

そんな感じです。

コカコーラパークの本を読んだから、それに関してでもちろっと今度書いてみよう。

ソーシャルというのは、よくわからない。

ソーシャルメディア」というものについて、いくつか思うところでも。
まずは記事のご紹介
・「ソーシャルメディアとは」を、ものすごく単純に定義しておこう | ハチヨン dialog http://bit.ly/9jZnOe
http://www.ikedahayato.com/?p=978
http://www.ikedahayato.com/?p=975
http://www.ikedahayato.com/?p=582
URL先の記事から、よいと思われる部分を抜粋。
・ソーシャルテクノロジーのキーワードは、「データの可視化」「マッチング」。
・(例)「あなたは休日には新宿のルミネを良く使っているんですね。最近の購買履歴と日記のキーワードを見ると、オフィスカジュアルをお探しのようです。今ルミネでキャリアブランドのセールをしていますよ、どうでしょうか。特別割引しますよ。」
・ブログメディアはローリスク・ローリターン。大企業は人件費的に参入が難しい。
・ブログは個人の知名度向上・腕試しの場。

中にはブログをソーシャルメディアと呼ぶ動きもあるそうですが、そんなことはちゃんちゃら可笑しいです。本当にちゃんちゃらです。
ただ「ブログは個人の知名度向上・腕試しの場」というのは確かに言い得て妙みたいな感じがします。ホームページより簡単に始められるってこと以外にも、ブログメディアの価値はありそうですね。

あと、データやネット上の足跡を重要視しているようですが、どうもそれはマーケティング・マネタイズしたい側の都合のような気がしないでもありません。そもそも「繋がる」というのは人と人同士で何かしらを介してタッチすることですから、これは「ログが残る」というネットの特性を再確認しているに過ぎないと思います。
なんかこの特性をあまりに強調し過ぎると上記の(例)のように「それって何か意味あんの?」的な、なんか可笑しな話になってしまう気がします。・・・宣伝会議での佐藤 尚之さんとか。。。

このログが残るというメリットが活用された形がアマゾンとかでの「あなたへのおススメ」機能ですよね。アマゾンがソーシャルメディア化する・・・なんて話しだすとまた別の意味で面白そうな気もしますが。。(「あなたへのおススメの友達はこの人」なんて紹介でもされるんでしょうか)
あとグーグルの検索連動型広告なんかも外せませんね。グーグルのソーシャル領域参入かに思われたgooglebuzzは苦戦しているようですが。

ひとつソーシャルメディアを語る上で重要になってくるのは、やっぱり「機能性」だと思います。
変に格好良く言えばユーザビリティだそうですが、SNSで大事なので思うに、
シンプルで、自由で、不便を感じさせなくて、何も機能がないようで、基本的になんでもできる。そういう自由度の高さだと思います。
そういう意味で僕は今のところ「ソーシャルゲーム」だとか、細かいアプリ的な分野にはあまり注目していません。もちろん、儲けどころな気もしますが。

分かりやすいのかはおいといて、ひとつ例えをしてみると、
メディアは炎上します。ソーシャルネット世界は炎上しません。
ブログは炎上します。facebookは炎上しません。
twitterは炎上しません。でもその中で個人のアカウントは炎上します(ドラマ「素直になれなくて」の脚本家さんとか)。

考えてみれば当たり前で、これが感覚的に当然と思う人とごっちゃになってる人がどうやら分かれるようで、是非とも押さえておいておきたいところです。ソーシャルネットは「世界」です。「空間」です。少なくとも僕はそう定義しています。

だから、コミュニケーションはコンテンツとは違うって話にもなりますけど、
そもそもコミュニケーションはSNSの所有物ではありません。一つの部屋の中で交わされる人と人との会話と感情図です。

あと例えば「facebookの利用者拡大」みたいなことがありますけど、これは別にfacebookという存在が大きくなっているわけではないんです。もちろん収益が上がって会社としては大きくなってるんでしょうが。ネットの世界ですから例え「空間」でも仕切りがなくて「部屋が広くなった」なんてことはないんです。「部屋はもともと今広いだけ広かった」んです。これが感覚的にしっくりきます。

うーん。。
こんな話わかる人には何の価値にもならないし、分からない人には伝えられないたとえ話だなぁぁ。
ということでここで断念。


今日はなんと!!僕が大学に行きます。授業にでます。
これは事件ですね。

(追記)
そうか、ソーシャルという概念を表すのに「生態系」というワードがあった。
たしかカタカナ語にすると「エコシステム」などというらしい。佐々木さんの本にも書いてあった。
「世界」なんて言葉よりは雰囲気つかみやすいし認知も少しは広まっているようです。
・・・でも僕はこれからも「世界」と表現し続けますw

これからの放送というもの。

今現在総ツイート数が999。
ということでもしも無事にこの記事を書きあげられればその報告ツイートが1000回目のツイートになるわけです。
こういう何かの節目でもなければ真面目にまとまった記事を書こうとは思わない怠け者ですので、いっちょこの機会にちゃんとしたのを書いてみよう!・・・という自戒の念を込めて贈ります。

この記事は大きく2部に分かれていて、前半はSNS、後半が「これからの放送というもの。」というメインの話題になっています。

まず始めに、最近のソーシャルネットワークについて。
「過渡期」という一言で片付けてしまえばあまりに身も蓋もないことなんですが、少なくとも今10代の人たちは、今のSNS、そしてソーシャルマーケティングの話を世代が上のひとたちがしているのを聞いて、違和感を覚えます。
「何難しいことを言っているの?」もしくわ「何当たり前のこと言っているの?」という違和感です。
既にネットも巨大掲示板もブログもモバイルも物ごころついた頃には存在していた世代からみれば、正直多くの「ソーシャルメディアセミナー」的なもので語られる内容は自然感覚的に身についています。そのセミナーでは、スーツを着た賢そうな人が真剣な顔をしてこんな話をしているんです。

「友達をつくるためには相手に自分を好きになってもらいなさい」
「クラスメイトの陰口を言うのはやめなさい」
もっとひどいのもあります
「会話のなかに自然な笑いを組み込むことで相手に好感をもたれやすいです」
「笑いをとるために無理に自分を偽ったりしては、相手にそれが伝わって逆に引かれてしまいます」

断っておきますが、これは僕自身のソーシャルメディアに関する見識が甘くて、そういう風に単純化して聞こえてしまう、というものではありません。本当に、こんな内容なんです。

例えば、
「企業としてSNSを管理する場合、CGMというものについては積極的に仕掛けていくべきか、それとも自然発生的なものを待つべきか?」などという質問。実に中身のない質問です。これは実際の中身はこんなもんです。

「クラスの中で人気者になるためには積極的にウケを狙うべきか。それともさりげなく良い人アピールをするべきか」

もちろん、こんな質問に対してもきちんとした解答はあります。
少し検索すれば、「異性に嫌われないための10の方法」「初対面の相手に賢いと思われる10の話し方」みたいなのがゴロゴロ手に入ります。
だからこういう細やかなテクニックをとことん論理武装して、その道のプロを目指すのはそれはそれで価値のあることだと思います。広告主から費用対効果を迫られたときに、一番上手な対処法は相手に指導する立場に立つことです。相手にコーチングを行えばいいのです。

確かにソーシャルネットは世の中を便利にしました。全ての情報を皆が共有できることが当たり前になりました。そんな中で、良い評判も悪い評判もあっという間に広まるのは当たり前。ただ、今はそれが75日続かないっていうだけなんです。

最早ソーシャルネットワークをメディアと評することはナンセンスです。
ソーシャルネットワークは「世界」なんです。パソコンの中にあるものじゃなくて、一人ひとりの心の中にあるものです。
一方メディアというものは少なくとも上端があって、流れもある「川」のようなものです。そしてその下端は、もしかしたら「忘却」という名の海に繋がっているのかもしれません。

だれもかれも広ーい部屋に一緒になっていて、全員フラット。
そんな中で「目立つ」ためにはどうするか。それは簡単です、背が高ければいいんです。
だから僕は、「コンテンツ」という言葉を「背丈」に見立てていつも重要視しています。
この辺りまた複雑な話になるので、今はちょっと置いときます。



では次に、メディアとは何かという話をしてみましょう。

この言葉は今ではとても多義的になってしまっています。
例えば、ソーシャルメディアとウェブメディアは違います。前者はさっきの「ソーシャルネット世界」のことですが、後者は例えば個人のブログなどのことを指します。
http://ow.ly/1AOeS 「出版編集者が知っておきたいウェブメディアの世界」
という記事を読んだから言いますが、実はここで取り上げられているBLOGOS等のウェブメディアサービスと、今までマスメディアなどと呼ばれていた雑誌などのオールドメディアサービスは本質的に同じです。ちょっと乱暴ですけどね。本質的にとは、「何をどう楽しむか」みたいなことです。結局人は自分の知らないことを知ると嬉しいし、なんだか人に教えたくなるし。そういうレベルでの、「本質」です。

ぶっちゃけると本当は、どこの新聞局が窮地に陥るとか、赤字転落とか、どこどこ社が電子化にトライしたとか、そんなことは所謂「業界事情」なわけで、吉野家とか松屋が牛丼の値下げ合戦をしている、のと同じ程度の価値のニュースなんです。本質的には。

ただ例えば、「ツイッタ―の普及」「Ustreamの普及」「ipad発売」みたいになるとそれはその影響を受ける人の人生の幸福に繋がってくるので、また別の話になります。それはどういうことか。
もちろんどれもこれも、一企業の一サービスではあるのですが、それがひとつのサービスを超えて新しい「概念」そして「人類のライフスタイル」を提案するものである場合は、単なる新サービスとは別で論じられるべきです。

非難まじりになってしまいますが佐々木俊尚さんはそこらへん曖昧なところがたまにあります。NHK・メディア激震での論議の際は、ネットの普及にともなって「伝える・伝わる(本質)」がどうなったのかという話と、「だからサービスはどうなっていくか(業界動向の予測)」という話をしつこいくらいに分けて話合うべきだったのです。もちろんこの筋書きは前者に対する理解が相方に行きわたっていないと成り立ちません。
だから仕方なく既存の企業体質の非難に偏るのは仕方ないとも言えますが、いささか「伝えるという本質」に対する理解ないし言及が足りない感は否めません。テレビの消滅を主張するなら、その代わりに「人から人へものを伝える」という役割を誰が担うかという提案をしなければ生産的とは言えません。もちろんITジャーナリストに新規ビジネスプランの提案を要求してしまうような、そんな今の企業側も悪いことは百も承知ですが。

じゃあどんな話をすればいいんだよ。ということでひとつ、「Ustream」が変えた「放送」という言葉の定義について話をしてみましょう。

ニコニコ生放送とUstreamの登場(というか普及)によって、だれでも放送局をもつことができるようになった。iphoneひとつでダダ漏れができるようになった。
僕が全然預かりしらないところで、数多くのダダ漏れが放送されているのでしょう。例えば飲み会や愚痴のこぼしあい。
しかしその中で、多少は人々の話題に上がるものは何かとなると、ケツダンポトフさんが行ってる色々なイベントや会見を中継すること、著名なジャーナリストが記者クラブ問題などに立ち向かってiphoneひとつで権力の壁に挑むこと。そういう内容や行動に価値のあるものだけです。そこで「これからのジャーナリズムとは、報道とは」みたいな話こそ、佐々木さんら「ジャーナリスト側」とかにして欲しい議論ですよね。

ところがそこで、「ダダ漏れのゆるゆる感がいい」などの意見がでることなども合わせて考えたときに、今のUstreamの普及によって起こっている混乱が見えてきます。それは「放送」というワードが騒動の一因のような気がします。
つまり放送という「行動」に価値を見出しているのか「自分がもつ内容(コンテンツ)」を放送「できる」ことに価値を見出しているのかということです。
僕個人の見解だと、今のUstream熱は前者によりかかっていると思います。ホースを与えられた子供がそれで縄跳びをして遊んでいるみたいです。

これは多分Ustreamがyoutubeの後に普及したせいもあって、youtubeで「面白い動画コンテンツを制作して公開する」という遊びを覚えたあとだったので、Ustreamの生中継という新しさに過剰に目がいっている気がします。生中継の面白さは、つまりコメントを投稿すればリアルタイムに反映されてうれしいみたいなレベルの話は、たぶんハンゲームとかでのチャットの時代で完成しています。むしろリアルタイム=速報性という図式から、さっきの話でジャーナリズムに影響してくるところが大きいのではないでしょうか。

youtubeでは完成したものを「見せる」ことしかできませんでした。それは「公開」だから。ブログと同じことですね。一人の人がものを作って、それを誰でも見られる状態にすることが「公開」。
ところが僕が思うにUstreamが「放送」というワードの認知とともに可能にしたこと(可能なのかな?と気づかせてくれたこと)は物語を「語る」ということ。まるでブログのあとにソーシャルメディアが誕生したように、そこにはやっぱり人と人をつなげるような全く別種の可能性を感じます。

今NHKのメディア激震を見直しているのですが、
http://www.youtube.com/watch?v=ZWKnz1Xn2KY ここの後半部分で女の人が非常に的を得た発言をしています。
「今ある技術を駆使して、ユーザーに価値のある情報を提供する方法と可能性について話し合うことがメディア界の大物が集まるような大層な会場で交わされる議論なのではないか」

佐々木さんは即これに対しNOと言ってしまっているようです。テレビという企業だけを見て、その可能性を否定しています。
しかし数多くのネットベンチャーが一人の逸材、ひとつの発案から誕生したように、多様な人材を抱える企業の中には、きっと才能あふれる人も沢山いるはずで、その人達が今後テレビという形をとった、まるでベンチャーのような新規事業を立ち上げる可能性だって多分にあるはずです。僕はテレビが大好きな側の人間として、その可能性の芽を否定するわけにはいかないんです。

さらに、再び先ほどのリンクの中で、ドワンゴの川上さんがまた別な意味で良いことを言っています。
「ネットにおいてコンテナを握っているのがグーグルやアマゾンなどの外国企業である」ということを問題意識していて、なるほどこれは長い目で見て確かに日本全体の利益にまで影響することだと思います。

じゃあ!
そういう立派な意見が出る場所なんだから!
そこで、日本人の全てに(一応は)リーチできている「テレビ」という存在を、新しい日本という国をトラフィック対象にしてソーシャルメディア化するという可能性はないのか。そんな話をして欲しい。

次世代の「テレビ局」ないし「放送局」というものが、「日本人」を対象にしたソーシャルメディア的な存在になるということはないのか。そんな話をして欲しい。

確かに今の各テレビ局が展開している自社サイトやNHKオンデマンドなどのサービスを見れば、実現には遠く及ばないような気もします。でもこの「構図自体」は真剣にあり得る話で、あと数年もすればそれが見えてくるんじゃないかと僕は思っています。それが既存の民放の内から生まれるのか外から生まれるのか、そこはテレビ局の頑張り次第ですよね。


・・・
なんか予定外に佐々木さんの話題ばっかになってしまったなぁ。。
わざとじゃないんですが。。
あまりに長くなって疲れたのでここまでにします。。