マクルーハン再考

さて、前記事について軽く触れたマクルーハンのメディア論について少し。
ただ、僕が読んだのは触りも触り、それも翻訳本、、ですらない解説本ですからあまりご期待なきよう。。

最近読書中はevernoteでメモを書いたりしています。何かもっと便利な道具があればお教え下さい。

以下メモ

マーシャル・マクルーハンのメディア論を読み解くことは現代広告シーンの把握にどのように役立つのか。
重要なことは、既にいくつかのポイントに分けられ、整理されている。

・聴覚という情報と視覚という情報の違い
特に、「テレビは聴覚的なメディアである」という式を感覚的に正しいと把握することが必要である。
従来人が言葉を開発し、それは会話によって伝搬されるものであった原初の時代をイメージするのである。

また、電気通信によるコミュニケーションの激変については現代に読んでも遜色ないほどに示唆にとんでいる。
特に、言葉の文字化による「部族」の「個人化」と正反対の現象が起こっていること、現代人の部族化については、
この数年来広告界などでも非常にホットなテーマとなっている。

メディアとは本来人間の能力の外化・拡張である、という方式も興味深い。

しかし一方で、光と同程度の速度で通信することが可能になった現代では、とてもそれを人間の能力の拡張と捉えることはできず、
人間はあらたな世界をそっくりもうひとつ手にしたほど、心と身体が混乱しているともいえる。

携帯電話が人間の身体性を拡張した、という説明は必要ではあるが、十分ではない。
時代の興味は既に各種インターフェースの開発、市場に置いてどの商品/ブランドが一位を勝ち取るのか、
などの本来的にメディアの進化とは真逆な部位に多くの人の興味は動いている。

「情報の時代に住み、狩人はいま、情報を獲物として狙っているのです。狩猟はいま、研究の形態でなされています」
 ・情報を獲物とした狩りが行われている、しかしその一方で「情報が私たちを見つける時代」という風にも語られている。
これは狩猟と労働が、完全には一致(そもそも完全一致などしないのですが)しないことによる錯誤だと思われます。
情報を獲物とする狩人とは、これからの時代のセルフブランディングを暗示しています。一方で、情報やブランドとは離れた
純粋な商業によって富を得た者も、お金をつかって情報を得ることになります。そして怠け者だけが、無料で情報のみを得る、
という図式でしょうか。

「情報が私たちをみつける時代」というのは、そもそも果たして真なのでしょうか。
何をもって真だと言い張るのでしょうか。
情報コンテンツの流通、とりわけ現段階ではいくつかの先進的なマーケティングの事例が、そうさせるのでしょうか。
ソーシャル性を用いた情報の拡散は、とても部族的です。小さなコミュニティでは、噂話は一斉に広まります。
しかしどんな部族であっても、コミュニティには、必然的に役割が振り当てられます。その役割によって、部族内人間の
仕事や運命や価値は決定してしまうのです。

メモ以上。

要約致しますと、部分的には大変面白いところもありつつ、今の時代に「機械の花嫁」とか言われてもポカーンってなっちゃいますよ、
という様なことを申しております。
といっても、時代によって同じ書物の中でも重要な部分とそうでない部分が別れることも珍しくないわけで。
個人的には、マクルーハンの教育論の部分が、(難解でまだ理解できないのですが)テレビっ子としてテレビに漬かって育った僕としては興味をそそられはします。