2010年の終わりに。@genfujimoto

とあるイベントにて、わずか20分でしたが拝聴した芦田先生のtwitter微分論の中での一説を受けて。

旧来メディアは覇権主義(当該国の実利的利害関係にのみ基づいて他国に対する対応を決定すること)的。
簡単に例えると「テレビに出ているやつはエライ、フォロワーの多いやつはエライ」的な考え、これが払拭されるとのこと。

もしもこの説が真理であって、なおかつ社会が着実にその方向に進んで行くのだとすれば、「広告」「テレビ」どころか「メディア」という言葉さえも変革を余儀なくされるのではないか。

思うのだが、メディアビジネス(テレビのビジネスモデル、旧来的広告のビジネスモデルなど)とは須くこの「覇権主義的」な考えに基づいて構築されて来ている。
それに僕は経済社会に置ける企業体としての「メディア」の価値とは、
アテンション経済の中である施策を打った時に返ってくる反応(アテンション)の量(質?)を担保すること「のみ」なのではないかと思っている。
それはつまり「視聴率」「PV」など、数字で表される各種データによってメディアは価値が規定される。

「質の高いメディア」「大人なら日経くらい読め」的なブランディング、メディアを「コミュニティ」と捉えその運営こそがメディアビジネスであるという考え方とは似て非なる。非て似なる。
そもそも前者のようなブランディングは、単純に旧来のマーケティング手法で顧客をセグメンテーションしようとしているだけで、後者とすら根本的に異なる部分がある。

さて、返ってくるアテンションを担保するとは、つまり「期待値を高める」ということである。
そしてそれは同時にマーケティング側にとっても重要な目標である。

マスメディアの規模の縮小によって数字的な媒体価値は減少(不明瞭化)。
インターネットを活用した経営コスト(配信コストなど)の削減よるローリスク化。
残された期待値を高める方法はおのずとコンテンツが「化ける」可能性のみになる。

メディア激変として「広告」という言葉を揺さぶっていてこれら時代の流れは、むしろ期待値を操作する方法論としての「マーケティング」をこそ消滅の危機に追い込んでいるのではなかろうか。

マーケティングの意味、意義がどんどん削がれて行った先に残された純粋な「広告」が残すものは、僕は「アイデア」と「クリエイティブ」だけだと思っている。
もしかしたら「問題解決」という役割さえも市場における需要と供給の概念から跡づけされた要素である可能性すらある。

またもう一つ例として、「期待値を高める」方法論の衰退が何を意味するのか。
それはソーシャルメディアによって初めて可能になるニュー・ライフスタイルの増加を意味する。

真の意味でマスメディア(覇権主義的、旧来的なメディア)が消失するということは、
いわば人間がギャンブルをしなくなるということ。夢を見なくなるということだ。
「あんなキレイな芸能人と付き合いたい、あんないい男になりたい。有名になりたい。」
そういう全てのアメリカンドリームを放棄することだ。
そしてそういういい意味でも悪い意味でも俗っぽい、子供じみた「憧れの感情」「夢」が、おそらく今までのテレビの9割だったのではなかろうか。

確かにテレビが、テレビCMが大衆に見せつけて来た「華やかな世界」「幻想」は、その全てが良い結果をもたらしたとは言えない。
解決がいっこうに進まない各種社会問題から目を背けさせる「ドラッグ」のような「害悪」ですらある可能性がある。
(参考:「広告は私たちに微笑みかける死体」オリビエーロ トスカーニ (著))

それにたしかにtwitterによって様々な社会問題に利益などなど度外視で真摯に向き合う人々の活動が可視化、広まりつつある。
生活水準は必要レベルがあればよく、しかも何も無理に日本国に居住することもない。
このような「行儀の良い」考えを日本国、全世界中の人々が持てばよいのだろうか。

しかしそのような世界が実現するのはまだ当分先か、下手すれば永遠に完成しない。
人間は楽をしたい。飽きのこないことをしたい。おまけに怠け者。なのにまだまだ他人の芝生は青く見える。

競争に勝とうとしない、勝てないその言い訳に「行儀よく」バカを見ることをしなくなっているのではないか。