メディアというもの。

@noritakahiroさんに勧められた、小林弘人さんの「新世紀メディア論」を読んで、思うところでも。

参考URL:

1.「コンテンツはコピーできるが、コミュニティはコピーできない」:http://ow.ly/1A9ZZ

2.「マスメディアはコンテンツ置き場になってしまうだろう」:http://techwave.jp/archives/51375731.html

2.のtechwaveの記事で書かれているように、最近「メディア」とか「コンテンツ」とか、あと新世紀メディア論の中で言われている「出版」だとか、そういう言葉の定義が多様に変化している。
これはひとえにネットのインフラ時代の前と後とで、不可能だからと編み出した方法論と、可能だから編み出される方法論との違いなだけで、本質は大きく変化していないと思います。

なので、一応「新世紀メディア論」で語られている内容には賛同するところが多く、また間違いも少ないと先に断っておきます。

ただやっぱり気になるのは「コンテンツ」といういい表しなわけで。
 小林さんら出版側の人にとってこれはどうしても「記事」のことを指すことが多くなってしまうのですが、多分そこが誤解の原因で、その他多くの業種にとって「コンテンツ」とは「単独で対価を支払ってもらう商品そのもの」であったりして、つまり転じて「その商品が支持者個人個人に提供してくれる額面以上の価値」であると僕は思っています。「ブランド」とも捉えられたりします。

僕は以前のエントリーで「コンテンツという言葉を、ソーシャルネットの中で人が目立つための背丈のようなもの」だなんて意味のわかりづらい例えをしていましたが。。その辺りにも原因がありそうですねぇ。

出版社にとっての記事という名のコンテンツ。
そして企業にとっての商品という名のコンテンツ。
どちらも同じ「サービス」であるという点は変わらないはずなのに、どうしてこういう齟齬が生まれてしまうのか。
それはメディアを持つか持たないか。どちらが先立つものなのか。という違いなのではないでしょうか。
何で商売するか、というビジネスモデルの違いなのではないでしょうか。

出版社(新世紀メディア論で語られているような、新定義の出版社も含む)は先に自分たちでメディアをもつ。
そうでない企業らはメディアをもたない。常によそから広告費と引き換えに与えられるものだった。

先立つものとしてメディアをもつ、とはどういうことかというと、そのメディアを「稼働」させている必要があるわけです。
メディアというのは川のようなもので、絶えず水が流れている状態です。
一方コンテンツはまさしくその川を流れる「水」。
水は、川がなくても、存在するだけで必ずどこかに流れていきます。重力に従って。ただし、逆にいうと着々と世界の「下端」、つまり人々の忘却の彼方へと消えていってしまうのです。

水を扱うのか川を扱うのかという点で、この「出版社」と「それ以外」のそもそものビジネスプランは大きな違いなわけで、ネットで可能になった技術のどれを駆使しても今後埋められることはないんではないでしょうか。

言葉の変化こそすれ、いずれは「放送」「通信」といった、今で言う「テレビ・ラジオ」の分野まで、新世紀メディア論的にいう「出版」に組み込まれていく部分が多くなるでしょう。

ただ、小林さんが出版的立場から「編集者」というものの存在を重要視していた傍ら、僕は「バイヤー」という者の存在が大事だと思っていました。このふたつは意味するところは似ているのですが、あえて違いを挙げれば、それは取り扱うコンテンツに対する態度だと思います。前者のことを少し悪く言うと、コンテンツは二の次、メディアの稼働サイクルが重要。一方「バイヤー」は、より厳しい目で将来的にも伸びるクオリティの高いものを「選別」することに最大限注力します(あくまでも言葉に対する印象です、現職の人は気になさらずに)。

つまりはどちらも「ファッション」ということになります。
数日前にみかけたこんな記事があります。

ツイッター「ホコテン」論 :http://www.satonao.com/archives/2010/04/post_2882.html

ここで言われている「マスメディアはデパート」というのも、なるほど同じことを示唆しているのだと思います。
・・・偶然ですよ。パクったわけじゃありません。

結局のところ、出版だってテレビだってビジネスモデルは同じなんですよ。

そこで、テレビは動画っていう3次元、そして「多くの人を巻き込むことで発生する面白さ」みたいなことについて少なくとも一日の長があるんだから、そこらへん見誤ってくれんなよ、って話。
小林さんも「新世紀メディア論」でおっしゃっているように、動画っていうリッチメディアの制作はテキストよりもコストもハードルも高いものです。これは「テレビ」が誇っていい自分たちの長所のひとつで、まさか「テレビを見なくなって同時に動画も見なくなった」なんて人はいないでしょう?

ただ、でっかい問題はひとつで、それはストックできない問題。ある意味で「テレビ」っていう箱デバイスの機能の問題でもあって、それはテレビ局っていう企業体の問題ではないはず。・・・はず。

多少乱暴にだけど、ホリエモンがこのことについて言及している。

→コピーガードとかHDD録画とかどーだっていいんだよな。:http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10442446246.html

ここさえ解決すれば、あとはテレビっていうのは実質もう雑誌とかブログとか、ミドルメディアの集合体にもなれれば、ファッションの総本山みたいな存在になれるんじゃないかな。
ここさえ解決すれば、「多チャンネル化」することと実質同じ効果があるはず。
4chとか6chってくくりを無くさないで、ブロードバンド上で個人個人が自分の好みのラインナップにもできる。
CMもスポンサーテロップもそのまま流してしまえばいい。
スキッピングされるから〜だなんて非難は、まるで挙げ足とりで、ウェブメディアはともするとそんな点ばかりを言及するけど、ウェブメディアだってユーザーの大多数に無視されている「雑多な広告貼り付け収入」に頼っているんじゃないか。同じじゃんか。(だからホリエモンの1時間何円で〜という話はテレビを何か映画くらいしか見ないものとでも思ってるみたいで、間違っている)

もっといえば、
いつかテレビ台のひとつひとつにあなた個人の好みを記憶する機能があって、それに合わせて配信するCMも変化するようになれば、恐ろしいと思わない?
まだまだ数年の歴史しかないウェブ上のコピーライティングに、これまで長い年月培われたCMプランナーの傑作が全部襲いかかってくるよ?・・・って話。
丁度こんなニュースもでてきたしね

facebookのオープン・グラフ:http://techwave.jp/archives/51437998.html

こういうソーシャル化がナノメディア・ミドルメディアの専売特許である時代が早く終わるといいと思う。
これに尽きる。

なんかあんま大したこと書けなかったけどさ、実はみんながそうで、実はみんな同じこと言ってるだけってことあると思う。

今回はテレビの話に傾いたけど、これを広告とか代理店の話にもっていけたらいいと思う。

そんな感じです。

コカコーラパークの本を読んだから、それに関してでもちろっと今度書いてみよう。