今一番知っておいて欲しいこと

前回のエントリーは、沢山の人に読んで頂けたようでよかったです。

あの記事は、17日土曜日の朝6時くらいに何もないのにもにょもにょと起きだして朝飯を食べたあと、8時くらいに久しぶりにテレビもつけずになんとなーく書き始めました。

ツイッタ―のTLとか追いながらだったので、なんだかんだで2時間くらいはかかったと思います。
「これからの広告会社というもの。」だなんて漠然としたタイトルで始めたので完全な見切り発車だったのですが、なんだか不思議とつらつらと筆が(?)すすみ、いつもはしない推敲なんかしちゃったりして、随分書いたなぁ、と思ったところで辞めました。

それで投稿して、自分で宣伝ツイートとかしてみました。→http://twitter.com/over_try_again/status/12318175321
これまで自分では結構いいこと書いたな、つぶやいたな、でもリプライないな、しょうがないよね。ってことがありましたし。
もちろんそれが普通なんですけどね。

そいでその日は無駄に食材の買い物を3店舗くらい回ったりして、午後3時前にTL見たらたまたまフォロワーの人が僕のブログタイトルと記事のURLをつぶやいていて、色々調べてみたら午後2時前に佐々木俊尚さんにツイートされてたんですね。

2回くらい佐々木さんに「どうやってこの記事知ったんですか?」って@で質問したら返信きて、「たぶんどこかのSBMだった」とか言われました。
いやいやいや、毎回記事かいてもPV100しか伸びないへなちょこブログがどこにブクマされんねん。
この辺りまだ謎のままです。

とまぁあとは佐々木さんがRTされて佐々木さんがRTされて佐々木さんがRTされて・・・。

ほんで元ライブドアホリエモン・・・じゃない@tabbataさんにもツイートしてもらってそれがRTされてRTされてRTされて・・・。


でも思ったんですが、コメント残していってくれる人がほとんどいないんですね。
RTされたやつもツイート検索でだーーっとみたんですが、殆どが佐々木俊尚さんのをそのまま公式RT。

追記で「コメント残してくださーい」って編集してからは、ぽつりぽつり「読みました―」みたいなのが、ツイッターのほうでありました。

でも。繰り返しになりますがやっぱり公式RTが今のツイッタ―っぽいですよね。そういう情報の流れ方。

たぶんメディアとしてのツイッタ―の側面が表れているんだと思います。
これを、RTされたときに「これすごい!」「そうか?面白くないな」「僕はこう思った」・・・みたいに感想のリレーみたいになることって、案外情報伝達の理想形みたいに思われてるかもですけど、意外と公式RTみたいなナチュラルな流通ってのがツイッタ―の本領なのかもしれません。
ただし、それは「佐々木俊尚」さんみたいにフォロワー何万人もいる人の場合だけ。もっと言えば、セルフブランディングできている人だけ。
僕も初めてフォロワー1万人超えの人に@で話かけられた時は「よしっ」と思ってちゃんと数往復ツイートしましたもんw

フォロー・フォロワーの数の違いが如実に影響力とかの差に表れる。これは「タイムライン」による「最速メディア」の成すわざですね。

企業・自営業(飲食店など)でツイッタ―が利用されるときに、販売促進として使われるか、コミュニケーションとして使われるのか。そんな議論も、意外とフォロワーの数の問題で解決してしまうことがあります。かも。

メディアをもっている、ブランドをもっている、という人は何事にも強いものです。
有名人ならテレビに出るのにギャラが発生するし、本を出せば売れるし、CMでれるし、CDデビューのオファーもあるし。。
…でもまぁそんな人ばっかじゃないですよね。

本当、ブランドって何なんでしょうね。脱ブランド志向が強まってるとか言われているのと同時にセルフブランディングが力説される。
そのらへんの違和感は、また今度書いてみます。


・・・ただ今ひとつ言うとすれば、佐々木俊尚さんが押している「スモールビジネス化」っていうのには、なんだか賛成できません。
SNSを駆使して個人がリーチできるレベル、数百人〜多くて数万人規模でコミュニティを形成するという考え。
だってこれ、数百〜数万っていうのが凄い曖昧。そこに落ち着く根拠がないし、数の単位としてなんか不自然です。

ネットが生まれて、ミドルメディアが生まれた感覚と似ているのかも。
でも数年の間にそこから大型SNSが普及した。
そんな大規模な変革が、まだまだ起こる、そんな予感。

・・・と、何かいいこと言ってやったぞ風な雰囲気で今回は終わります。正確には今回も、ですが。

それでは最後に、今広告が好きな人に一番知っておいて欲しいことを。
だいぶ仕込みました。

http://www.youtube.com/watch?v=D8Kv7BJEA0c

これからの広告会社というもの。

前回のエントリーより。僕のつぶやき。

「ネットの世界はいつも自由競争と寡占・独占の間で危うく揺れている。ただ、そこまでの過程で、料金面で無料・ディスカウントを実現しようとして、すぐさま雑多な広告貼り付け収入に走るのは、仕方ないとはいえ褒められたものじゃない。と思わないでもない。」

さらに、

「 純性な意味での広告会社がこれから生きていくためには、時代のどこかで「1と0で扱う情報」部分に関わる事業から手を引かないといけないと思う。googleが関与する範囲全てということです。この範囲で勝負する会社は、将来的に成長できないか、広告会社ではなくなると思います。 」

さらに、

「情報は水です。マーケティングはその溝の詰りを取り除く作業みたい。」


広告とマーケティングは切っても切り離せない、なんだか腐れ縁みたいな仲のような気がします。
しかしこれからの広告会社という存在には、マーケティング事業はふさわしくないのではないか、とも思います。
ここでいう広告会社とは、広告代理店の中で、媒体のバイイングを行い、クライアントと向き合い共に歩んでいくという前身をもとに、次世代に残りゆく「新しい広告代理店」的な意味合いです。まぁ最早代理という意味に意味はないですが。
「情報は水」です。そしてネットの世界が限りなく整備されていけば、それは非常に綺麗に流れ落ちるようになります。
情報の流通の交通整備を行うという事業からは、やはり広告会社は手を引くべきなのでは??

ただ、その逆は必ずしも真ならずで、ネットの情報流通を支配している側からの「広告」界への侵入はむしろ勢いを増しています。例えばグーグル、例えばアップル。これはビジネスモデル的な問題で、やはり物を売るときはその流通を握るものが強い影響力を発揮するという、シンプルな問題です。佐々木俊尚さん的に言うとコンテナを支配するものが全てを支配するのだそうです。

しかしグーグルが定義する広告と、これまでの広告会社陣営が定義する「広告」はもちろん意味合いが異なります。グーグルが提唱する広告とは言葉を変えると「便利情報」です。これは広告を「流通する情報」という「もの」ベースで捉えている考えが如実に表れています。情報というのは物だから、「あるべきものは、あるべき場所へ」「欲しい人には、欲しいものを」という発想になるのです。

一方広告会社、そしてこれからも広告会社が生き残る頼みの綱的な概念は、広告を情報ではなく感情と捉えることだと思います。感情・経験・意思。そういう記号で表せないドラマを演じることに広告の意味はあるのではないでしょうか。

そこでビジネスモデルの話ですが、それはやはりネットの活用が不可欠になることは間違いないでしょう。
というより、マスな情報発信という形式が適切ではないのです。それはなぜか。
まずあまりにマスに打つことで、ターゲットにしていないユーザーにまで不必要に広告が打たれてしまうというコストの問題がひとつ。しかしこれは俯瞰して見ればネットの世界であろうと起こっている単純な流通の問題でもあるので、実は大きな問題ではないと思っています。
次に、今までのマスメディアの歴史の中で、広告というものが「便利情報」だという意識が浸透してしまったというのが決定的な問題。これは例えばTVCMを番組の枠の合間に流す、新聞広告を有限な紙面の中で面積を割いて掲載する、という手法形式が作ってしまった問題ともいえます。

だから、「広告とコンテンツの垣根がなくなってきている」ということの真意と、iadが提唱する新しい広告展開は一致します。
広告を「もの」として捉えるか「感情」として捉えるか、発信者が考えを変えることでその提供の仕方も変化しているのです。

伝える心さえ備わっていれば、放送という形、それが電波による単方向なのか、コメントが残せたりする双方向なのか、そんな違いは実は重要ではないとさえ思います。

ところが問題はまだあって、それは例えば「知らない人に知ってもらう」という極々基本的な地点です。
これは「伝える」という話よりももっと「ネット」と「オールドメディア」との明確な能力差が測りにくい気がします。というのも、もちろん今はテレビなどのマスメディアがこの分野だけではネットに勝っているという意見が大半なのですが、その理由の大部分が単にテレビの視聴者の多さ、もっというとチャネルの少なさによるところだからです。
僕はテレビの「多チャンネル化」には多少期待しているところがあります。というのも、コンテンツベースで考えたときに、バラエティも報道もスポーツも音楽もドラマも、全部ひっくるめて「4ch」みたいなくくりを続けることに、もう意味が残っていないと感じたからです。
ところがテレビの多チャンネル化は、同時に今までのテレビがもっていた「チャネルの少なさ」という消極的なメリットをなくすことになります。知らない人に知ってもらうという役割を担える人が、いなくなってしまいます。もちろんそういうもっとも重要な役割が組織や企業体から個人個人に移ってはいるのですが、それが完全に移行してしまってもこれまでの100%、120%のパワーが残っているのかにはやや疑問が残ります。もっとも、個人個人が自分の生まれ持った趣向をベースに自由に生活することが、結果的に社会全体に善の感情のゲージを上げる効果をもたらしてくれれば、それが一番いいのかもしれませんが。

今の日本のテレビを斜めから見れば、「チャネルの少なさ」という特徴を残しつつ「コンテンツベース」の放送ができる、というなんだか「宙ぶらりん」な状態ともとれます。これはコンテンツ側から見ればある意味チャンスのはずです。だからこそ面白いことがいっぱいできるし、自由な競争を妨げているともとれます。一部の大衆向けコンテンツがチャネルの少なさによって時間軸の局所的にとりざたされる様は、多くの人が目にしているでしょう。
テレビの制作陣の話をすると、こういう「宙ぶらりん」な状態をコンテンツ作成者という立場からあくまでも客観的に見て、それを利用するくらいのあざとさを持って欲しいです。少なくとも歪な日本の放送形態に合わせて、作る側の技術継承や人材育成も一緒になって歪に進化してしまうことは避けていて欲しいものです。そんなもの、ちょっと先の未来には誰の得にも何の資産にもなりません。

話をテレビから広告会社に戻すと、
これから何より重要になってくるのは簡単にいえばブランド構築という結論になると思います。
それは業務として請け負い、他企業のブランド醸成の手伝いをするという役割ももちろんあるのですが、というより現状それが90%だとも思うのですが、僕はどうしても広告会社それ自体がブランド化する姿をイメージしてしまいます。誤解しないでください、「有名デザイナー、カリスマメディアクリエイター」みたいな大層な名前で有名になることではありません。
もう今の時代、ブランドは世論を形成するものだと言っていいと思います。それはそのブランドをとりまく多くのファンの存在、そこで交わされる会話の中に潜む共通感情・共通意識からくるものです。
ところが広告以外の一般的な業種、例えば飲料メーカーのコカコーラブランドなどがどれほど大きくなっても、それで社会一般的な世論の形成にはならないと言えるでしょう。これは「飲料」というものを扱うモデルの限界(べつに悪いことではない)とも言えます。強いて言えば音楽業界での個人アーティストのブランドなどは理想に近い気もします。それはブランドの信仰対象が「人」という、いろんな感情・行動・物語の要素をもった存在だからです。しかしそれは「個人のアーティスト」に向けられるもので、つまり時間的にみてすごく有限ですし、今のところ音楽業界のモデルは、「組織(レーベル)」とブランドの根本である「アーティスト」の同期は行われていません。

それでは誰がその役割を担うか。だれがネットの内外全ての世界の中でブランドを誇り、かつ人々の生活の中に公平性さと多様性と方向性を指し示すことができるのかとなったときに、僕はそれが広告会社であって欲しいと思っているんです。

その根拠は、元々の背景としてブランド醸成の技術を培ってきたことはもちろん、自分以外の多くのブランドをサポートし、認め、肯定し、かつそれを収益にあげられる業種が広告というものしかないからです。


・・・とまぁ偉そうなことを語りながら、果たして自分がどこまで実現できるものか。
長くなったので、ここまでにします。

(追記)
@sasakitoshinao さんにこの記事の感想をツイートしてもらって、ブログのPVが一気に増えましたw

 @over_try_again でフォローミーです。

(追記)
@tabbata さんにこの記事の感想をツイートしてもらって以下同文。

 読んでくれた方はコメント残していただけると嬉しいです。。。

(追記)
僕のツイッターアカウントは@genfujimotoに変更になりました。よろしくお願いします。

ツイッタ―でつぶやいたことログ

RTとかふぉぼられとか特にされなかったけど、結構いいことつぶやけたんじゃないかなって自分で思ってることをつらつらと挙げていきます。
こういうサービスってありますよね。ふぁぼった―とtwilogの中間みたいな。。



ネットの世界はいつも自由競争と寡占・独占の間で危うく揺れている。ただ、そこまでの過程で、料金面で無料・ディスカウントを実現しようとして、すぐさま雑多な広告貼り付け収入に走るのは、仕方ないとはいえ褒められたものじゃない。と思わないでもない。

学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。村上春樹

僕がマーケティングが嫌いなのは、デジタルネイティブだからだと言い訳してみる。でも結構当たってる気がする。U30というデジネと、U20のデジネとでは、養殖と天然くらいの差はあるんじゃないのかな。情報は水です。マーケはもともとある毛細血管の詰りを除く作業みたい。

ラジオキー局はネット界で最高品質のコンテンツホルダーになれる可能性を自ら消してる、残念すぎる! RT @ataira RADIKO理屈はわかる。メディア側にいるから。でもラジオを持たない人が多い中、難聴取はほぼ全ての人じゃないかな?http://bit.ly/9rgaov

サイトと連動させた広告全般のコミュニケーションの設計って、外注する範囲じゃないですか?でも、一見なにもそういう企画やってなさそうなCMの元サイトを検索してみたら、じつは単独としてのコンテンツは色々見れるようにしてあった。そういうのがこれからの企業側のもつべき姿勢だと思うのです。

ウッフィーだかウィッフィーだかしらないけど、あれって要は「1億総株式会社化社会」ってこと?


2つめと3つめは僕のではないです。

変容する作家性の時代〜ネット時代の想像力〜【レビュー】

#primenews

http://togetter.com/li/11393

(メディア論・クリエイティビティなどの討論番組)
(出演者の論を書いて、それに突っ込むスタイルでこの記事を書きます)

濱野智史ニコニコ動画信者。作家性は消滅するぜ!初音ミク万歳!無名のだれかが形成する偶像なのにクオリティ高し!
 → 笑w としか言えんわ。まぁ、クリエイターという職種という存在。その垣根は何だろうという問題提起の時間。

ラリー遠田(お笑い評論家)→お笑い評論家というだけあります。正論を言っています。
 テレビの文化と同時進行で発展してきたお笑い文化。今、トーク力や場を仕切る能力、そういう今まで芸人に求められていた能力が、テレビの中で求められるようになってきた。

富野ゆかり(ガンダムとか鉄腕アトムの人らしい)(くせ者じじいだ。):ツールとクリエイティビティの問題。
 →まぁ最近はフォトショで一発だからなぁ。という話。
冨野:ネット上、ハードウェア上でしか存在できない類の「動画」は不自由。
 →たぶん、古い時代の人の話なので、まぁ間違った認識と前提でしょう。
冨野:100年残るような作品が本当の作品です!
 →傲慢だなぁ。100年なんて、テレビが生まれてまだ50年で、こんな状態に陥っているのに、分かってるの?
冨野:外界の面倒な障害にもまれて、それに適応・順応される過程もクリエイトの一部。
 →まぁとにかくクオリティとクリエイティビティの違いに敏感になっているな
冨野:好きなことだけやって作るのは違うだって、障害とかがあって、それによって作品はもう一段階アップするんだよ
 →そもそもねぇ、そこを否定しているわけではなくて
宇野:今のネット環境、だれでも出稿だったりできるアナーキーな状態、そして昔のテレビという不自由な環境、これが重なる。
 →重ならん!
宇野:ニコニコ動画素人作品は問題外だ!・・・ではなくて、もっとオープンに見守ろう
 →そりゃそうだ。
濱野:100年もつために初音ミクは生まれた 
 →わらw
濱野:テレビとか文学とかが、糞つまんねぇからニコ動とか見てる
 →それはいいけど、口調がそろそろキモくなってきた
濱野:ネット界は時間の経過が早い。いちがいに比べられない。
 →納得。
濱野:長期間。作品の単位的なものを残そうという姿勢
 →言い得て妙。例えばガンダムが誕生何周年なのかは知らないけど、その年数と初音ミクを同じ条件で比べることはもうできないだろう。今と昔では生活環境内での情報量が違うし、幼いころに覚えた今の中年のガンダムの記憶と、今の若者のアニメへの記憶が同じはずがないだろうから。作品の単位的なもの。これは、言い得て妙で、「作品性」というものが、技術的に発展したツールやデバイスに宿るものではないことを重々承知しながら、今、ネット住人が個人個人の趣味や主観をよせ集めて、集合知的なコンテンツクリエイトへの挑戦というジャンルを生みたかった。その過程、その一例が初音ミクだと。
市川→この人は保守派としてとても良い意見を言っているので、僕程度が口をはさむこと叶いませんwいや、まったく。

冨野:ぐちゃぐちゃおれはアニメ監督という肩書がはずかしいうんたらかんたら
 →結局この人は時代に文句をいいながら時代に頼りながら、今も、今の時代に文句を言っているだけのウンコだな。
 →まぁあえてひとつ言えば、今も昔も人間の感受性というのは育つんですよ。ニコニコばっかやってたら成長しないよみたいな偉そうなことを言っているけど、そんなもん、成長しない人はいつの時代に生まれても成長しないんだよ。自分が今の時代に生まれたら果たしてガンダムみたいなものを作れて有名になれたか分からなくて怖いんじゃないの?

冨野:素人の無数の投稿が才能の芽を摘んでいる
 →一番の問題である、年寄りに今の「作家性」が審査できていないというものの解決になっていない。

冨野:1000万の人間から支持を集めたものがクリエイターだ愚民どもめ!!
 →わお!!わお、わお。この少子化の時代に自分のかつてのものさしをもってくるとはよっぽどの天狗野郎だ。

濱野:作家の人間性とツールの対比が語られているけど、むしろ技術の側から作品化している。情報環境をつくる作家??
 →よい意見

最終的に、司会進行の女性がだした問いが、全てだと思う。

「クリエイターって何なんですか?」

1億総表現者社会。なんて言われたのも今は昔。

サントリー 烏龍茶 CM

このCMいいなぁと思うんです。
なんか「TVCM!」っていうものの限界を見るような気もしますがw
これもひとつの手法のその先なんでしょう。

ところで最近、読んだ書籍、読んだブログ、目にした講演、について、恐れながらレビューとかを偉そうにしたいとずっと思っていたのですが、なかなか怠けてしまいできていませんでした。

2週間のうちに以下の内容の記事を完成させるようにがんばります。

・「須田伸著、次世代広告進化論を読んで」
・「佐々木俊尚著、2011年 新聞・テレビ消滅を読んで」
・「新世代広告会社の方向性について」
・「BS 特番 変容する作家性の時代〜ネット時代の想像力〜 という変な番組を見て」


一言版をとりあえず

「次世代広告進化論」→次世代というか現代って感じ。良著だけど、教科書的。
「2011年 新聞・テレビ消滅」→佐々木俊尚さんがどんな人かと思えば、大したことはない。かも。口調が高圧的でこわいw
「新世代広告会社の方向性」→植田さんの広告革新塾とか読んでて思ったことをつらつらと。
「BS 特番」→文化系トークラジオ life にも出ていた、濱野智史さんがどんな人かと思えば、全然大したことない。本当に。ただのオタクなんじゃないか。番組内容的には個性溢れる人が多く出演していて、面白かったので、ツッコミ的にレビューする。


そんな感じです。

リンクとかまさしくブログに書いておけ。

ツイッタ―経由とかで知ったサイト、利用するようになったサイトを無造作に貼っていきます。
リンクフリーとかの確認は最早無意味ですw

http://www.dougamanual.com/blog/202/Ustreamの使い方(初心者〜中級者)

http://www.comzenbunose.com/:国内のインタラクティブWEBコミュニケーションの事例をいっぱい紹介。

http://g-yokai.com/
http://ad-kakushin.jugem.jp/
http://jp.techcrunch.com/
http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/
http://mb101bold.cocolog-nifty.com/

ツイッタ―経由以外で個別に読むブログとかです。ラストの「ある広告人の告白(あるいわ愚痴かもね)」というブログは素晴らしくて、あんなブログにしようとこのブログを始めたのですが、もう無理そうです。

トラックバックが送れないーー。

広告の価値尺度

ものを売るという言葉があります。

ものを作って売るということです。
自分の手でひとつひとつものをつくり、売れた数量で儲けを得ます。

広告会社だって、ものを作っているのに、それを売っていない。買われている。

なんなんだろう、この状態は。

僕は前々から、広告を打つということ、その広告を創った人に支払われる報酬というものは、どうあるべきか悩んでいた。

極論というか理想論をいうと、その広告を打ったことで、打たなかった場合よりも売れた分の99%だと思う。

広告とコンテンツの垣根がこれからどんどん薄くなる。これは、広告を楽しいものだと思ってきた僕的な人には普通の肌感覚で、
要は何をもって広告と呼ぶか、PRと呼ぶかという、ただの定義域の問題でしかなくなるだと思う。

ネットを利用したロングテールのモデルというのは、極めてマーケティング寄りな発想でロングテールのテールの部分を精密にしようというものだと思う。グラフの「解像度」をあげるみたいなイメージ。あの、ポリゴンみたいなやつ。

広告、プロモーションというものは、というか、それ以外での「広告」の面は、そのロングテールの胴体を持ち上げることだと思う。

徐々に下降する曲線に、断絶的にジャンプを与えて、面積を広くするようなイメージ。・・・まぁ実にマス的な発想ですが。

コンテンツとadの関係っていうのは、まだまだこれから議論され、模索されるでしょうねぇ。

今目の前にあるiadなど、最たるものではないでしょうか。説明会でジョブスが解説して見せたナイキのやつとか、あれはまぁ極端な気もしますが(その分凄さがわかりやすかった)。あれを広告と、今の日本語で表わすとますます混乱が起きます。

結局、広告会社がアプリで広告する、なんて考えよりも、ゲームをつくる、そのゲームを売る、Tシャツだってデザインする、音楽も作曲する、なんてことになればいいんです。そのために必要なものは、広告会社のブランド構築です。


ところで・・・メディアというものに、ブランドという色を付け加えることはできるのでしょうか?また考えてみます。


飲み会明けで寝るタイミングを失ったポンコツ状態で書くとより一層実の無い記事になるですね・・・。