これからの広告会社というもの。

前回のエントリーより。僕のつぶやき。

「ネットの世界はいつも自由競争と寡占・独占の間で危うく揺れている。ただ、そこまでの過程で、料金面で無料・ディスカウントを実現しようとして、すぐさま雑多な広告貼り付け収入に走るのは、仕方ないとはいえ褒められたものじゃない。と思わないでもない。」

さらに、

「 純性な意味での広告会社がこれから生きていくためには、時代のどこかで「1と0で扱う情報」部分に関わる事業から手を引かないといけないと思う。googleが関与する範囲全てということです。この範囲で勝負する会社は、将来的に成長できないか、広告会社ではなくなると思います。 」

さらに、

「情報は水です。マーケティングはその溝の詰りを取り除く作業みたい。」


広告とマーケティングは切っても切り離せない、なんだか腐れ縁みたいな仲のような気がします。
しかしこれからの広告会社という存在には、マーケティング事業はふさわしくないのではないか、とも思います。
ここでいう広告会社とは、広告代理店の中で、媒体のバイイングを行い、クライアントと向き合い共に歩んでいくという前身をもとに、次世代に残りゆく「新しい広告代理店」的な意味合いです。まぁ最早代理という意味に意味はないですが。
「情報は水」です。そしてネットの世界が限りなく整備されていけば、それは非常に綺麗に流れ落ちるようになります。
情報の流通の交通整備を行うという事業からは、やはり広告会社は手を引くべきなのでは??

ただ、その逆は必ずしも真ならずで、ネットの情報流通を支配している側からの「広告」界への侵入はむしろ勢いを増しています。例えばグーグル、例えばアップル。これはビジネスモデル的な問題で、やはり物を売るときはその流通を握るものが強い影響力を発揮するという、シンプルな問題です。佐々木俊尚さん的に言うとコンテナを支配するものが全てを支配するのだそうです。

しかしグーグルが定義する広告と、これまでの広告会社陣営が定義する「広告」はもちろん意味合いが異なります。グーグルが提唱する広告とは言葉を変えると「便利情報」です。これは広告を「流通する情報」という「もの」ベースで捉えている考えが如実に表れています。情報というのは物だから、「あるべきものは、あるべき場所へ」「欲しい人には、欲しいものを」という発想になるのです。

一方広告会社、そしてこれからも広告会社が生き残る頼みの綱的な概念は、広告を情報ではなく感情と捉えることだと思います。感情・経験・意思。そういう記号で表せないドラマを演じることに広告の意味はあるのではないでしょうか。

そこでビジネスモデルの話ですが、それはやはりネットの活用が不可欠になることは間違いないでしょう。
というより、マスな情報発信という形式が適切ではないのです。それはなぜか。
まずあまりにマスに打つことで、ターゲットにしていないユーザーにまで不必要に広告が打たれてしまうというコストの問題がひとつ。しかしこれは俯瞰して見ればネットの世界であろうと起こっている単純な流通の問題でもあるので、実は大きな問題ではないと思っています。
次に、今までのマスメディアの歴史の中で、広告というものが「便利情報」だという意識が浸透してしまったというのが決定的な問題。これは例えばTVCMを番組の枠の合間に流す、新聞広告を有限な紙面の中で面積を割いて掲載する、という手法形式が作ってしまった問題ともいえます。

だから、「広告とコンテンツの垣根がなくなってきている」ということの真意と、iadが提唱する新しい広告展開は一致します。
広告を「もの」として捉えるか「感情」として捉えるか、発信者が考えを変えることでその提供の仕方も変化しているのです。

伝える心さえ備わっていれば、放送という形、それが電波による単方向なのか、コメントが残せたりする双方向なのか、そんな違いは実は重要ではないとさえ思います。

ところが問題はまだあって、それは例えば「知らない人に知ってもらう」という極々基本的な地点です。
これは「伝える」という話よりももっと「ネット」と「オールドメディア」との明確な能力差が測りにくい気がします。というのも、もちろん今はテレビなどのマスメディアがこの分野だけではネットに勝っているという意見が大半なのですが、その理由の大部分が単にテレビの視聴者の多さ、もっというとチャネルの少なさによるところだからです。
僕はテレビの「多チャンネル化」には多少期待しているところがあります。というのも、コンテンツベースで考えたときに、バラエティも報道もスポーツも音楽もドラマも、全部ひっくるめて「4ch」みたいなくくりを続けることに、もう意味が残っていないと感じたからです。
ところがテレビの多チャンネル化は、同時に今までのテレビがもっていた「チャネルの少なさ」という消極的なメリットをなくすことになります。知らない人に知ってもらうという役割を担える人が、いなくなってしまいます。もちろんそういうもっとも重要な役割が組織や企業体から個人個人に移ってはいるのですが、それが完全に移行してしまってもこれまでの100%、120%のパワーが残っているのかにはやや疑問が残ります。もっとも、個人個人が自分の生まれ持った趣向をベースに自由に生活することが、結果的に社会全体に善の感情のゲージを上げる効果をもたらしてくれれば、それが一番いいのかもしれませんが。

今の日本のテレビを斜めから見れば、「チャネルの少なさ」という特徴を残しつつ「コンテンツベース」の放送ができる、というなんだか「宙ぶらりん」な状態ともとれます。これはコンテンツ側から見ればある意味チャンスのはずです。だからこそ面白いことがいっぱいできるし、自由な競争を妨げているともとれます。一部の大衆向けコンテンツがチャネルの少なさによって時間軸の局所的にとりざたされる様は、多くの人が目にしているでしょう。
テレビの制作陣の話をすると、こういう「宙ぶらりん」な状態をコンテンツ作成者という立場からあくまでも客観的に見て、それを利用するくらいのあざとさを持って欲しいです。少なくとも歪な日本の放送形態に合わせて、作る側の技術継承や人材育成も一緒になって歪に進化してしまうことは避けていて欲しいものです。そんなもの、ちょっと先の未来には誰の得にも何の資産にもなりません。

話をテレビから広告会社に戻すと、
これから何より重要になってくるのは簡単にいえばブランド構築という結論になると思います。
それは業務として請け負い、他企業のブランド醸成の手伝いをするという役割ももちろんあるのですが、というより現状それが90%だとも思うのですが、僕はどうしても広告会社それ自体がブランド化する姿をイメージしてしまいます。誤解しないでください、「有名デザイナー、カリスマメディアクリエイター」みたいな大層な名前で有名になることではありません。
もう今の時代、ブランドは世論を形成するものだと言っていいと思います。それはそのブランドをとりまく多くのファンの存在、そこで交わされる会話の中に潜む共通感情・共通意識からくるものです。
ところが広告以外の一般的な業種、例えば飲料メーカーのコカコーラブランドなどがどれほど大きくなっても、それで社会一般的な世論の形成にはならないと言えるでしょう。これは「飲料」というものを扱うモデルの限界(べつに悪いことではない)とも言えます。強いて言えば音楽業界での個人アーティストのブランドなどは理想に近い気もします。それはブランドの信仰対象が「人」という、いろんな感情・行動・物語の要素をもった存在だからです。しかしそれは「個人のアーティスト」に向けられるもので、つまり時間的にみてすごく有限ですし、今のところ音楽業界のモデルは、「組織(レーベル)」とブランドの根本である「アーティスト」の同期は行われていません。

それでは誰がその役割を担うか。だれがネットの内外全ての世界の中でブランドを誇り、かつ人々の生活の中に公平性さと多様性と方向性を指し示すことができるのかとなったときに、僕はそれが広告会社であって欲しいと思っているんです。

その根拠は、元々の背景としてブランド醸成の技術を培ってきたことはもちろん、自分以外の多くのブランドをサポートし、認め、肯定し、かつそれを収益にあげられる業種が広告というものしかないからです。


・・・とまぁ偉そうなことを語りながら、果たして自分がどこまで実現できるものか。
長くなったので、ここまでにします。

(追記)
@sasakitoshinao さんにこの記事の感想をツイートしてもらって、ブログのPVが一気に増えましたw

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(追記)
@tabbata さんにこの記事の感想をツイートしてもらって以下同文。

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