コンテンツの主導権

twitterを始めてブログを書く機会が減る理由は、いろいろあるけど、そのひとつは、
話して(書いて)教えることよりも、聞いて(読んで)学ぶことのほうが、機会が多い人が多数だということなのでは?
なんて書いて、言い訳にしてみたり。


さて、マスなメディア、僕の場合ではテレビというものの存在が、いかにしてこれから成り立っていくか、という問題。こないだNHKで放送された「マスメディア〜テレビ・新聞の過去〜」も参考にしてみましょう。

そこで繰り返し使われる「コンテンツ」という言葉。この言葉のそもそもの意味をきちっと定義していけば、はかどる議論も増えるのではないでしょうか。

「TVはよい番組、新聞はよい記事、つまり結局はコンテンツのクオリティを高めていかないと」というような文章の中にでてくる「コンテンツ」という言葉。これは「もの」ですね。ここからここまで、で、ここをだれが、どうやってつくる、というようなことが目に見えるような定義域です。
私見ですが、このような意味合いで会話する意味合いは薄く、「番組、記事」という言葉を「コンテンツ」だなんて横文字にしているだけのような気がします。ゆえに「TVはよい番組、新聞はよい記事、つまり結局はコンテンツのクオリティを高めていかないと」というのも良い意見だとは思いません。芸人さんに、「とにかく世界で一番面白いギャグをつくれ!」っていうようなこと。そこで、「そもそもおもしろいって何?」というのが正しい疑問の持ち方だと思います。


僕が思うに、コンテンツというのは「ものづくり」ではなく「ものづくりをする人そのもの」。そこにはファンがいて、ファンがみんなで見つめ上げているもの。だからコンテンツそのものには、表現技術があまり左右されない。そこから生み出されるいろいろな「オブジェクト」が集積していって、それを人が見て、どんどんファンが生まれてくる。

これからのテレビというものが、劇的に変われるなら、ひとつこの「ファンをつくりあげる」ような構成にしてもらいたい。企業提供番組なんかは、ある意味一番近い存在なのかもしれない。広告らしさが如実に表れてしまって気持ちが悪い提供番組も数多いが、本来コンテンツがそのコンテンツらしくあれば、分かる人(ファンになってくれる人)には不快にはならないはず。

いわゆるテレビ批判、の代表的なもの、「おもしろくない芸人レベル」「うすっぺらいJPOPばかりの音楽業界」。でも「笑い」と「音楽」、これって今のとこと一番次世代のマスメディアを成り立たせるものに近い気がします。今はいろいろ模索途中だともおもいますが、媒体社とコンテンツが、共同体となることがまず先決なのではないでしょうか?

うん、主導はもうコンテンツに移ることは間違いないから、それをかき集めるような集合体がまた発生するのだろうけど、「テレビ」「メディア」という話に限れば、放送と放送するもの、が結託する必要性があることは間違いないでしょう。勇気ある決断を下す時期が、迫っています。
それはコンテンツの主導権の問題。ひとつのものを取り扱うとき、二つ以上のかずのものをひとつに取り扱うとき、そのコンテンツの主導権をだれが握るのか。「テレビ」というくくりがその役を担うこと、それはたしかに限界に近付いているのかもしれません。だけど「テレビ」というものに生きてきた人、今でもテレビが大好きなひと、その人たちが好きだと言っていた「テレビ」の意味は、また別のもののはずです。ある時熱中した番組がひとつふたつあるだけなら、テレビを好きにはなりませんよきっと。