お金というのはどこに発生するのだろう、何が嘘なのだろう。

これからの広告、コンテンツ、行動の過程の、どこに課金をすればいいのでしょうか。僕はまだまだ理想論ですが、真に尊重するべきはコンテンツの核の威厳みたいなものだと思っていて、それを損なわない範囲であれば著作権がらみの縛りはなくなって欲しく思います。


Ustreamで少し仮想をしてみます。自分は大学生なのでこの程度の例えで恐縮ですが、例えば東大生が数人集まって「東大生チャンネル」みたいなのを開講したとしましょう。サークル活動のような雰囲気で、週1〜2回は生放送している。東大以外からもいろんな大学から友達を読んで、大学受験で苦労したこと、活用した勉強法などの話を、受験生をメインターゲットに放送するとしましょう。時々結構偉いひとも読んだりして、大学生と対談みたいなこともしたらいいじゃないですか。

そこでは大手予備校のレビューなんかも結構過激にしたりするんです。東進はどうとか、駿台とか河合塾がどうとか。

次第に受験生のともみたいな評判になって、毎回それなりに受験生からのビューも多くなったとします。そこで、ひとつのコーナーとして、毎回お題をだしたりして、抽選したりして、1名に参考書をプレゼントとかするとします。でもその参考書は、たとえば東進ブックスからの提供だったりすると思うんです。
それで、もしもなにか、放送する側と見る側で、これが「東進の提供なのか」とか、具体的にはキックバックもらってるのかとか、そういうのをちゃんと言わなかったとかどうとかっていういざこざって、なんだか生まれそうじゃないですか。放送する大学生だって、いつまでも完全に趣味でやりたい人ばかりなわけじゃないと思うんです。メディアですから、自己発信だったり、ひとつ収入を得るという形で社会参画を果たしたいわけです。大なり小なり。想像ですけどね。
そんなときに、じゃあ今まで放送された東進に関するメッセージが嘘だったのかというブーイングってのも起こると思うですよ。

実際、これまでのネットメディアの形態ではそういうことありましたよね。
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0322&f=national_0322_015.shtml

ブログ内での企画での、やらせ疑惑。そこからの炎上。みたいな。
他にもひと昔まえの、いかにもうさんくさい、商品の宣伝を押し込めたブログ記事による宣伝とかも、参考になります。
ただ、テレビ番組でのやらせ疑惑。そこからの番組打ち切りっていうのは、ここでは別の話として扱います。だってそれは本当に単なる「嘘」じゃないですか、ねつ造じゃないですか。

なんかUstreamがこれからどんどん使われていくなかで、スポンサーとか関連で金もらって放送することがどう捉えられるようになるかがちょっとだけ心配なんですよね。ちょっと最初のうちは、いろいろ問題っぽいことがちょくちょくあるのかなぁと。もちろん、ひとつひとつの問題も最小サイズだから、世の中の多くの人の耳に入らなかったりするのかもしれないけど。

これからUstreamつかって発信するぞ!!みたいな人も、そういうのを見守る人も、今一度、例えば「スポンサーにつく」ってどういうことなのだろうって考えて欲しいと思うんです。どこに、なにに、お金というのは発生するのだろう。きちんと自分の放送したいビジョンとかがあれば、番組の核とスポンサーというものの線引きは、できるはずなんです。
こういうことを考えること、これって凄く基本的なことで、それこそ、高校生、中学生に意識してほしいことですよね。


さっきの仮想でいうと、究極的には「東大生ちゃんねる」が「東進ちゃんねる」になることですよね(1年くらい前なら、深夜のテレビでこういう番組放送してほしいと思ったものです)。

もしこういう方向での課金面での進化(というか変化)が嫌という人が多いのならば、Ustreamで放送する人の目的は、単純に自己表現というか、マックス良く言えばセルフブランディングという価値なのかもしれません。ファンの獲得。

さっきの仮想でいうと、番組を放送していくなかで、メンバーのひとりが本を出版して、その宣伝を放送のなかでするとか、あるいわ「東大生チャンネルガイド」みたいな自費出版をするとか、まあそんな形態なのかな。

でもそういうかたちでだった、番組それそのものとは多少なりずれたところを宣伝する(販売を促進する)ことには変わりないわけです。もしもUstream放送の番組の核が、放送の主催者の「個人」ただそれだけであるのならば、そういう意味で「どこまでも純粋にコンテンツ」として番組で扱える話はかなり限られてくるはずです。少なくともお金というものは形もなくなりますね。

だからgdgdになるのかなぁと。結局人間、別のところからの金銭的な支えとかを取り除けば、意外と残る者は少なかったりするから、自分の体と愚痴だけだったりするから、ダラダラくっちゃべってるような放送、好きなことの話を無償でするような内容になるのかなぁと。

そもそもセルフブランディングってどうなんでしょうね。その先に事業化へのステップアップが・・・とかならまだ分かりやすいのですけど、どうも勝間さんのこととか想像すると、だらだらとセルフのブランドだけで本とか講演で稼ぐことって、それって未来のあることではないじゃないですか。ああいう人がだす本とか話って、なんていうか、まぁ熟練してるから説得力はもたせてるんですけど、まぁコンテンツ的な価値の創出、ものづくりはあんまできてないですよね。ファンにとってはもちろんコンテンツなんですけど。熱烈なファンに大量にフォローされるのが関の山じゃないですか?ww

でも、そういう考えだと、これって、第三者が手を加えることは無理だよなぁと。例えば、僕はperfume好きで、Ustreamperfumeの話をすることはperfumeにとってメリットになるけど、perfume側でそういう二次動作を狙っての活動ってほぼ無理じゃないですか。っていうか、何年もまえから、それならyoutubeでいいって話じゃないですか。

だから、なんていうか、自分個人の存在にコンテンツ的価値を与えられた「タレント」だったり「アイドル」という人に、むしろUstreamって使ってみて欲しいなぁって思うんです。もしかしたら、素人がダラダラする放送より一味もふた味も違うかもしれない。そうすると、それもう、ラジオだよなぁって。映像もありになった、ラジオだよなぁって。CMは挟まないけど。それを、完全にそのタレントのファンの人達がみたら、楽しいだろうなぁ。でもそういう感情資本って、市場に直接変化を与えないし、お金という面では、効率のいい方法ではないだろうなぁ。でももとから、ラジオもそういうもんだったじゃないって思う。perfumeのラジオはperfumeのファンが聞くもので、これからはっきりとそうなるのかも。ラジオに出演してたときにはもらってたわずかなギャラは、なんというか「ギャラ」という名目で回収するのは無理かもしんない。まぁ最終的には、個別課金もありになると思う。

そこで、だったらタレントって何??って話になるし。
マスメディア完全崩壊っていう人は、この世からタレントがなくなることも想定しているのかな?
って・・・充分ありえることなんだけれども。

ちなみに僕は、「コメンテータ」「コラムニスト」「エッセイスト」「万人うけだけはするほんわかタレント」みたいな軽い自己発信者がテレビに出演することが昔から大嫌いです。だから昼から夕方にかけての情報番組とか大嫌いです。それは多分、そういうたったひとつの価値しかない自己発信を、テレビという場所ですることにこの人は何の意味があると思っているのだろう、とかでもんもんとしていたからだと記憶しています。

で、話を戻して、

結局、最終的には、グローバルなネット社会がマスメディアを始めとした様々なビジネスモデルを破壊する〜だなんて、どっかの佐々木さんみたいな結論になってしまうけど、まぁそれが真実ということなのでしょう。
好きなものの番組コンテンツが、見れる(番組というか、動画というか、要は当人が画面の中で動いて喋って意思表示した内容物ですね)。有料無料は、このさいは大きな問題じゃない。それを、テレビよりも小型なラジオにあてはめて考えると、多少その「マス崩壊」という言葉にも説得力がマス(増す)。なんて。


でも一応言っとくと、そういうUstreamとかの個別放送局であっても、番組外からスポンサーという形態は手法として全然あり。番組のコアから大なり小なり外れる第三者からの援助を求める形は全然あり。それが文明開化とともに一気に巨大産業にまでのし上がっていまのテレビ・新聞・ラジオ というものが生まれて、今その跡地に小さな芽が生まれている。でもその新しい芽の中にも「スポンサーについてもらう」という手法の痕跡がまだ残っている。
いったんゼロからリスタートして、なんとまたもや僕たちは、根本的な問題にぶち当たるのかもしれない「さぁ、広告をどうしていこうか」という問題に。


こう考えると、「コミュニケーションデザイン」だって、まぁ8割は、まぁ所謂「手法」なのかなって。結局「おもしろいが一番」みたいな、そういう路線で時代が移り変わるなかで研究開発・練達されていく技術みたいなものなのかなって。だってそうでしょ。人間がおもしろい、楽しい、って思うことは、そう変わらないじゃないですか、悲しい時に笑うような時代になったら、それは異常だけど。だから、本当の根本の広告活動は、そう大きく変わらないんだよ。・・・って、仲畑さんが宣伝会議で言ってましたよ。(おい




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そんな感じです。

今日は割と保守的な僕でした。